安心院千代松丸の墓
- 安心院千代松丸の墓
- 九人ケ峠
9代280年余続いた、「安心院氏」終焉の地といわれる山中に立つ墓。
正安年間(1299~1302)に竜王城を築いたと言われる宇佐大宮司・安心院公泰が、安心院村十六か村の地頭を兼ねて入村したことで始まった「安心院氏」。
弘治年間(1555~1557)、豊後国の大友義鎮に制圧されて以降は、大友氏に従っていました。しかし天正6年(1578)、日向高城川原(宮崎県木城町)で発生した耳川の戦いで、薩摩の島津義久に大友宗麟が大敗を喫したことをきっかけに、安心院氏は大友氏から離反するようになりました。
そして迎えた天正10年(1582)、安心院鱗生は、大友氏により竜王城を攻め落とされ自害しました。鱗生の息子、安心院千代松丸の行方については、九人ヶ峠で斬殺された説、日田方面に逃げ落ちる途中、萱籠(墓が建っている所)で殺された説など、諸説伝えられています。
- [参考文献]大分放送大分歴史事典刊行本部/編(1990)『大分歴史事典』